大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪地方裁判所 平成6年(ワ)7602号 判決

主文

一  被告らは、原告に対し、各自一〇〇万円及びこれに対する平成五年一月一七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを一〇分し、その九を原告の負担とし、その余を被告らの負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

理由

【事実及び理由】

第一  請求

被告らは、原告に対し、各自一二五一万八七九一円及びこれに対する平成五年一月一七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

一  本件は、原告が被告医師の誤診及び不相当な死の告知により損害を被ったとして、医療法人に対して診療契約の債務不履行に基づき、診療に当たった被告医師に対して不法行為または債務不履行に基づき、それぞれ損害賠償を求めた事案である。

二  争いのない事実

1 当事者

(一) 被告上田恒一(以下「被告上田」という。)は、医師であり、被告医療法人上田外科医院(以下「被告医院」という。)において、診療に従事する者である。

(二) 原告は、被告医院において、被告上田から診療を受けた者である。

2 診療歴

原告は、平成四年四月一日、被告医院との間で診療契約を締結し、同日、被告医院で初めて診察を受けた後、被告医院に、同月二日から九日まで通院、同月一〇日から同年六月一九日まで入院、同月二〇日から同年七月二〇日まで通院、同月二一日から同月二四日まで入院、同月二五日から同年八月二六日まで通院、同月二七日から平成五年一月七日まで入院した。

診断の結果、被告上田は、原告が、悪性リンパ腺腫に罹患していることを疑った。悪性リンパ腺腫とは、リンパ節及びリンパ球節組織の悪性腫瘍の総称である。被告上田は、平成四年七月二七日、悪性リンパ腺腫に罹患している疑いを原告に告げた。

被告上田は、右診断に基づいて、原告に対し、平成四年八月二八日、エンドキサン、オンコビン、アドリアシン、ブレオ等の抗癌剤の投与を開始し、同日から同月三一日まで、同年九月四日から同月七日まで、同月一一日から一四日まで及び同月一九日から二一日まで、それぞれ連日抗癌剤を投与した。

その後、原告は、平成五年一月七日、被告医院を自発的に退院した。

3 大阪警察病院での診察結果

原告は、平成五年一月八日より、大阪警察病院で治療を受けたが、その際には、悪性所見は見られなかった。

三  争点(原告の主張)

1 被告上田の誤診

被告上田は、原告に悪性リンパ腺腫の病状がないのにもかかわらず、不注意によりこれがあるとの誤った診断をして、原告に対し、無用かつ有害の治療行為を行った。

2 不相当な死の危険の告知

被告上田は、原告に対し、悪性リンパ腺腫という病名を告知した上で、抗癌剤の投与中に、「瓜破(斎場や墓地のある場所の地名)へ行くか」等と繰り返し言い、また、新興宗教の護符を勧めるなどして、生命の危機に伴う恐怖をあおった。

3 損害の発生

(一) 被告らの行為により、原告は、入通院が必要となり、また、抗癌剤の投与による副作用が生じた。また、被告上田の不相当な死の危険の告知により原告は、多大な精神的苦痛を被った。

(二) 損害額

(1) 治療費 二五一万八七九一円

(2) 入院雑費 二七万一七〇〇円

(3) 通院雑費 七万三〇〇〇円

(4) 原告及び家族の入通院交通費概算 八万二九五〇円

(5) 逸失利益 四五七万二三五〇円

(6) 慰謝料 五〇〇万円

第三  争点に対する判断

一  争点1(誤診)について

1 争いのない事実及び《証拠略》によれば、次の事実を認めることができる。

被告上田は、平成四年四月一日から同年一二月七日までの間に、胸部、胸椎、腰椎及び腹部に関して、レントゲン及びCT撮影を計一二回実施し、その結果、リンパ腺の腫瘍は見つかったものの、それは正常な範囲内にあるといえるものであり、悪性リンパ腺腫として認められるような特異的な変化は認められなかった。

平成四年七月二二日及び同年八月二八日に実施した血液検査の結果は、正常値であった。

この他、超音波検査も実施したが、リンパ腺に特異的な所見は認められなかった。

被告上田は、原告が退院した平成五年一月七日当時、原告の悪性リンパ腺腫が治癒したとは考えていなかった。

平成五年一月八日以降に原告が受診した大阪警察病院では、原告は、悪性リンパ腺腫とは診断されなかった。

2 他方、《証拠略》によれば、次の事実を認めることができる。

(一)血液検査の結果

被告上田が、原告に対して実施した血液検査の結果によれば、平成四年四月一日、赤血球数は三七四(単位は万個/立方ミリメートル、正常参考値は四三一から五六五)、ヘモグロビンは一二・六(単位はグラム/デシリットル、正常参考値は一三・七から一七・四)、ヘマトクリットは三七・七(単位はパーセント、正常参考値は四〇・二から五一・五)であった。同様に、同月二一日ころの検査結果によれば、赤血球数は四一一であり、いずれも正常参考値より低く、貧血の症状が認められた。

悪性腫瘍の存在を疑わせる指標であるフェリチンの数値は、平成四年四月二二日に六六四・三(単位はナノグラム/ミリリットル)、同年五月一二日に一三三一・〇、同年八月七日に五八三・六であり、正常値(一〇から二〇〇)と対比すると、著しく高い値を示していた。

(二) その他の検査結果

被告上田が原告に対して実施した、胃カメラの検査(平成四年四月二一日)、大腸の病理組織検査(同年五月一五日)、胃の病理組織検査(同年六月四日)及び注腸検査(同年七月二四日)の結果には、いずれも悪性所見は見られなかった。

(三)臨床症状

被告上田が、原告に対して抗癌剤の投与を開始した平成四年八月二八日までの間に、原告には、次の臨床症状がみられた。

(1) 頚部(腫大)

平成四年四月一五日、原告の頚部のリンパ腺の腫大及び頚部の浮腫状の腫大が認められ、以後、浮腫は顔面にも認められるようになり、四月末ころまで持続した。その後同年五月六日から同月一一日ころにかけては浮腫は軽減したが、その後も腫大は認められ、同年七月六日にはこれが増大するように見受けられた。

(2) めまい、偏頭痛

原告は、被告上田に対し、遅くとも平成四年四月一三日までにめまいを訴え、以後八月一八日までの間に、頻繁にめまいや偏頭痛の症状があった。

(3) 腹水

原告には、遅くとも平成四年四月九日までには腹水がみられるようになり、その症状は途中改善した時期もあったが、同年六月二七日まで続いていた。

(4) 腹部症状(腹痛、重圧感、圧痛、放散痛、膨満)

原告は、平成四年四月九日、上腹部の圧痛を訴えており、その後、一時的な症状の改善はみられたが、同年七月二九日までの間に、断続的に腹痛、重圧感、圧痛、放散痛、膨満などの腹部症状を訴えた。

(5) 排便障害

原告は、平成四年五月二五日から同年六月二九日にかけて、排便障害を訴えた。

(6) 両下肢痛、放散痛

原告は、平成四年五月一三日から同年七月二九日までの間に、断続的に、両下肢痛または放散痛を訴えた。

(7) 胸部の動悸、胸痛、胸苦

原告は、平成四年四月二二日、同月二七日、同年七月一〇日及び同年八月一八日に、胸部の動悸、胸痛または胸苦を訴えた。

(8) 歩行障害

原告には、平成四年六月一日以降、歩行障害がみられ、特に七月一七日以降、症状は悪化した。

(9) 腰痛

原告は、平成四年四月二七日以降八月一一日までの間、途中改善した時期もあったが、断続的に腰痛を訴えた。

(10) 全身倦怠

原告は、平成四年七月一二日以降八月二一日までの間、断続的に全身の倦怠感を訴えた。

3 争いのない事実、《証拠略》によれば、原告の病名に関する被告上田の診断の形成と、その間の原告の対応等に関し、次の事実が認められる。

被告上田は、悪化する原告の臨床症状及び悪性腫瘍を示唆する血液検査の結果から、平成四年七月二七日までに、原告の病名として悪性リンパ腺腫を疑ったが、確信するには至らなかったため、同日、右の疑いを告げた上、他の病院での診断と治療を受けることを原告に勧めた。被告上田は、同月三一日及び同年八月一日にも、同様に転医を勧めた。

原告は、平成四年八月一九日、河内総合病院を受診したが、その際の診療科目は循環器科であり、悪性リンパ腺腫とは診断されなかった。また、同月中に、原告が大阪警察病院を受診したことはなかった。

原告は、同月二二日には被告医院の上田省三医師に対し、同月二四日には被告上田に対して、それぞれ、警察病院でリンパ腫と診断を受けた旨を述べた(しかし、原告は、実際にはそのような診断を受けていない。)。これに対して、被告上田は、他の病院での治療を受けるように説得したが、原告は、被告上田に命を預けるといって、同医師による治療を懇願した。被告上田は、原告から聞いた診断名と自らの診断が同じであることから、悪性リンパ腺腫との診断に確信をもった。

4 右1ないし3で認定した諸事実を前提に検討すると、2で認定した血液検査の結果及び原告の臨床症状に照らすと、1で認定した事実によっても、被告が原告に抗癌剤の投与を始めた平成四年八月二八日当時、原告が悪性リンパ腺腫に罹患していなかったとまでは断定することができない。したがって、被告上田の診断が誤っていたと決めつけることはできないので、誤診を前提とする原告の主張は理由がない。また、被告上田は、再三、原告に対し、他の病院での診断と治療を受けるように勧めていたこと、原告は、実際には、他の病院で悪性リンパ腺腫の診断を受けていなかったにもかかわらず、あたかもその診断を受けたかのように被告上田に伝えた上で、同医師による治療を懇願したことに照らすと、被告上田のその後の治療も相当性を欠くとはいえない。

二  争点2(不相当な死の危険の告知)について

1 《証拠略》によれば、以下の事実を認めることができる。

(一) 大阪市内の瓜破地区には斎場や墓地があるところ、被告上田は、平成四年八月二八日の抗癌剤投与の開始以後、身体的苦痛を訴える原告に対し、回診の際に、「瓜破に行くか。」等とたびたび声をかけ、また、診断及び検査データの上で明確な根拠もないのに、あと半年の余命である旨を述べた。そして、右のような説明の後で、原告の受けたであろう心理的動揺をやわらげるような措置をとらなかった。

(二) 被告上田は、抗癌剤投与を開始した後、新興宗教団体の護符を身体の痛む所に貼るように原告の家族に勧め、原告はこれに従い、護符を身体に貼った。また、平成四年九月二八日には、原告は、被告上田を通じて、護符を購入した。

(三) 被告上田の右各行為により、原告は、強く死の恐怖を植え付けられ、精神的苦痛を被った。

2 思うに、医師及び医療機関は、癌に罹患している患者に対し治癒の見通しの告知ないし説明をする場合、殊に医師のもった見通しが悲観的なものである場合には特に、患者の病状や精神状態等の諸事情を考慮した上で、恐怖感等、不必要な精神的ショックを与えないように、告知ないし説明をする内容及び程度を慎重に検討すべき注意義務があるといわなければならない。ところが、争いのない事実と右1で認定した事実を前提とすると、既に癌に罹患している疑いを告知され、抗癌剤を投与中で、身体的苦痛を訴えた原告に対し、被告上田は、原告の受ける心情に思いを致すことなく、余命が幾ばくもないとの示唆を不用意に与えたものというべきであり、加えて被告上田が護符を勧めたことは、本件の状況の下では、原告に、もはや科学的な治療による治癒が不可能であり、残された手だてはいわゆる神頼みしかないと思わせるに十分な不相当な言動というべきであり、医師としての注意義務を怠ったものということができる。

そして、被告上田の前記認定の言動、その程度及び当時の原告の病状等の諸事情を考慮すると、原告の精神的苦痛を慰謝するには、被告らに連帯して一〇〇万円を支払わせるのが相当である。

三  よって、原告の被告らに対する本訴請求は、連帯して一〇〇万円の支払いを求める限度で理由があるので、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 中田昭孝 裁判官 齋藤 聡)

裁判官 瀬戸口壮夫は、転補につき、署名押印することができない。

(裁判長裁判官 中田昭孝)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例